私の思う始めの一経は?


五蘊・六処・縁起について

阿含経には五蘊、六処、縁起、の教えがたくさん残されています。

それらは確かに仏教の基本中の基本ともいえる教えばかりですが、わかりやすいですしょうか?

誰にでも分かりやすく、理解できるように教えを説かれたお釈迦さまが、布教を始めたころに説かれたといわれる教え、文明や教育の発達した今の私たちに難しいのはどうしてなのでしょう。
そんな素朴な疑問が私の中にあります。

<一つには色・受・想・行・識、という言葉が何を意味するのかわかりにくいからでしょうか。
増谷博士は根本仏教に、色は肉体・受は感覚・想は表象・行は意志・識は意識と説明されていますが、それでもやはり理解しにくい言葉です。ただそこにはとても大切な意味合いがあると思っていますので、わたしなりの考えですが、少し具体的に記してみたいと思います。
少し長くなりますが、できれば最後まで読んでくださいね。


文字のなかった時代に、お釈迦さまはこう語りだされたのではないでしょうか。

基本の教え

  • ◎眼は色に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。
  • ◎耳は声に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。
  • ◎鼻は香に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。
  • ◎舌は味に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。
  • ◎身は触に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。
  • ◎意は法に接して内に受を生じ、そこから想が生じ、行が生じ、識が生じる。

ここでいう「色」は見えるもの、「声」は聞こえるもの、「香」は香り、と人間の六つ感官とその対象を示して、そこから認識が成立する流れが語られています。



では、これを表にしてみましょう。次のようになります。

こんどはこの表を縦に見ればどうでしょう。

一番左の列が外の六処、次の列が内の六処になります。

六処とは外界とそれを感じる人間の感覚の接するところ、を意味することがわかります。

次に、表を右から見てみましょう。

一番右の列が識の列、その左の列が行の列、次が想の列、次が受の列、となっています。となると、その左の〈眼・耳・鼻・舌・身・意〉の列が色の列と考えるのが自然ではないでしょうか。

そこから、五蘊とは外界から受ける事象による人間の心の動き方、人間そのもの、ということが言えると思います。



これらのことから、六処の〈色〉と五蘊の〈色〉は明らかに異なるもので、この二つの〈色〉の混同が、阿含の世界をわかりにくくしている一つの原因と考えられます。

次に《基本の教え》の続きにこのような言葉が続けばどうでしょう。

  • ◎眼は別の色に接すると内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎耳は別の声に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎鼻は別の香に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎舌は別の味に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎身は別の触に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎意は別の法に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎意は別の法に接して内に別の受を生じ、そこから別の想が生じ、別の行が生じ、別の識が生じる。
  • ◎眼は色に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。
  • ◎耳は声に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。
  • ◎鼻は香に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。
  • ◎舌は味に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。
  • ◎身は触に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。
  • ◎意は法に接しなければ内の受は滅し、想が滅し、行が滅し、識が滅する。

これは〈縁起〉の教えに大変近いものを感じます。

いかがでしょうか、私はこのような教えがまずあって、このあとの段階として、阿含経に残された、五蘊・六処・縁起の経典に続くのではないかと思っています。

ではあえて、もっと具体的にしてみましょう。

[たとえば]
  • *(眼)でりんご(色)を見ました。りんごがある(受)、このりんごは甘いのだろうか(想)、
    匂ってみよう(行)、手を伸ばす(識)。
  • *(鼻)で香り(香)をかぎました。甘酸っぱい香りがする(受)、おいしそうだな(想)、
    食べてみよう(行)、包丁で皮をむく(識)。
  • *(舌)でりんごを味わう(味)。甘くておいしい(受)、分けてあげたいな(想)、
    声をかけよう(行)、一緒に食べませんかと言う(識)。
  • *最後の意と法は、脳と考えること、ではどうでしょうか。

このように外界から受ける刺激を受け止め(受)、そこから浮かぶいろいろな思い(想)が生まれ、それに対しての自分の意思(行)が働き、行動をおこす(識)。

人はとても複雑な生き物で、いろんな思い、いろんな考え方があるようですが、つまるところ、ここから逸脱はしていないように思えるのです。



そう考えると、それがすべてである、と語られたお釈迦さまの言葉にも矛盾せず、理解しやすいように思います。他の仏典に出ているとか、高名な仏教者が語られている、とかではありませんが、
ただ、お釈迦さまの指し示す道の一つがここにあるのではないか、と思っていますので、ぜひ、五蘊、六処、縁起について、考えを巡らせていただければと思います。