はじめに・阿含経典について


私が増谷文雄博士の書かれた「根本仏教」を手にしたのは、今から30年ほど前のことです。

仏教に関心を持った当時の私は、書店の本棚を前に大いに迷っていました。なにしろどこを取っ掛かりに
すればよいかわからず、だれの本を読むべきかもわかっていませんでした。

その中でこの本を手に取ったのは、たぶん「根本仏教」という、タイトルに魅かれたのと、

最初のページを見たときに、この本なら理解できるのではないかと感じたからでした。



本の最初には識語が記されています。

第1に「根本仏教」とは阿含経典によって知ることのできる、お釈迦様の直説をいう
言葉であること、次にこの本は根本仏教の思想の体系と実践の体系を語るものであり、阿含経典の
説くところをそのまま引用して論じることに努めている、と。

そこからは、お釈迦様の直説をできるだけ損なわない、お釈迦様の直説をできるだけそのままに
伝えたい、という博士の固い決意が感じられます。

では、阿含経典とは、どのような経典なのでしょうか。

阿含経典の成立

「阿含」とはその経の集録された原名「アーガマ」(Agama)が中国に伝わって翻訳される際に、音写されたもので、もとの「アーガマ」には、「到来せるもの」、とか「伝え来れるもの」という意味があり、その経が「伝来の経」であることを意味しています。



では、その伝来の経アーガマはいつ成立したものでしょうか。

それは、お釈迦さまが亡くなられてすぐのことです。

お釈迦さまの後を追っていた、長老マハーカッサパの一行にお釈迦さまの訃報が届いたとき、弟子の一人が放った暴言から、マハーカッサパは、すぐに皆の受持している教えを一つに整えないと、間違った教えが広まったり、力を持ったりして、正しい教えが伝わらなくなると思いました。



そこでマハーカッサパは主だった500人の弟子を集めて教えを整える集会をもちました。それを第一結集と言います。

当時はまだ文字がなかったので、合誦(一緒に声を出して合わせる)することによって、そこに集まるものすべてが、同じ言葉で記憶するという様式で行われました。アーナンダによって語りだされた教えが、この時500人の比丘たちの合誦により記憶され、阿含経として伝わっていくことになります。

<かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、……にましました>とはじまるお経の様式は、アーナンダによって語りだされた、この時に始まると言われています。

二つの伝来(阿含)

①セイロンに伝えられた「パーリ五部」
第一結集当時は文字がなかったので、それらの経典は暗誦により伝持されていました。およそ西暦前第1世紀のころはじめて文字で記されました。その時の言語はマガダ語系のプラークリットで、それがインドを南に下り、セイロンに伝えられたものがパーリとよばれる経典群です。「パーリ五部」はそのような由来で成立しています。
②日本に伝えられた「漢訳四阿含」
第一結集の経典は、ある時期にいたって、北西インドからシルクロードを通って中国に伝えられ、中国で翻訳されました。時期はおよそ西暦397~435年の間と考えられています。今日伝わる「漢訳四阿含」と称される経典群です。

日本の仏教は中国から伝わっているので、近世に至るまで②の漢訳四阿含のみしか伝わっておらず、また中国の絶大な影響から、この阿含経が重要視されていませんでした。

ところが、近年世界の仏教研究の成果で、①と②が同じ経典を基とすることが知られてきてより、これらの中にこそお釈迦さまの直説があるのではないかと、ようやく阿含経に注目が集まることになりました。



本の中に書かれてるお釈迦様の言葉です。

「比丘たちよ、いざ遊行せよ。多くの人々の利益と幸福のために。世間を憐れみ、人天の利益と幸福と

安楽のために。一つの道を二人して行くな。

比丘たちよ、初めも善く、中も善く、終りも善く、理路と表現とをそなえた法を説け。

また、まったく円満かつ清浄なる梵行を説け。人々のなかには、汚れ少ない者もあるが、

法を聞くことを得なかったならば堕ちてゆくであろう。聞けば悟る者となるであろう。」



仏教がそのように語られるお釈迦さまの教えであるなら、そしてそれがきちんと現代語訳されているなら、

今の私たちならきちんと受け止めて、しっかり考えて、目標とすることができるはずです。

私もまた、お釈迦様の直説をできるだけ損なわず、お釈迦様の指し示す道を歩みたいと思います。



そして大切な人のために、阿含経典から、お釈迦様の言葉を少しずつご紹介させていただいて、

お伝えすることができればと思っています。





参照文献

「根本仏教 阿含経典講義」増谷文雄著 筑摩書房発行

「阿含経典」1~6巻 増谷文雄著 筑摩書房発行