申恕(シンサパー) 増谷文雄訳 阿含経典3巻 諦相応20
「かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、コーサンビー(憍賞弥)のシンサパー(申恕)林にましました。
その時、世尊はその手にすこしばかりのシンサパーの葉をとって、比丘たちに告げて仰せられた。
『比丘たちよ、汝らはいかに思うか。わたしが手にとっているすこしばかりのシンサパーの葉と、
このうえのシンサパー林にあるそれと、いずれが多いであろうか』
『大徳よ、世尊がその手にとりたまえるシンサパーの葉はすくなく、このうえのシンサパー林に
あるそれは多うございます』『比丘たちよ、それとおなじように、わたしが証知して、しかも、
汝らに説かざるところは多くして、説けるところは少ないのである。
■比丘たちよ、では、なにゆえに、わたしは、それらを説かなかったであろうか。
比丘たちよ、それは役にも立たず、梵行のはじめともならず、厭離・離貧・滅尽・寂静・証智・等覚・
涅槃にも資することがない。そのゆえに、わたしは説かないのである。
■比丘たちよ、では、わたしは何を説いたであろうか。比丘たちよ、〈こは苦なり〉とわたしは説いた。
〈こは苦の生起なり〉とわたしは説いた。〈こは苦の滅尽なり〉とわたしは説いた。
また、〈こは苦の滅尽にいたる道なり〉とわたしは説いた。
■比丘たちよ、では、なにゆえに、わたしは。それらを説いたであろうか。比丘たちよ、それは役に
立ち、梵行のはじめとなり、厭離・離貧・滅尽・寂静・証智・等覚・涅槃に資するからである。
そのゆえに、わたしは説いたのである。
■されば、比丘たちよ、〈こは苦なり〉と勉励するがよい。〈こは苦の生起なり〉と勉励するがよい。
〈こは苦の滅尽なり〉と勉励するがよい。
また、〈こは苦の滅尽にいたる道なり〉と勉励するがよいのである。」
シンサパーの木は特別な木ではなく、ごく一般的に見かける木であったらしいのですが、
お釈迦さまとお釈迦さまの弟子の方たちとの関係が、シンサパー林の木陰という心地よい環境と
相まって、さわやかな温もりを感じさせますが、お話の内容は明確で力強く、お釈迦さまの道の
目標とするところと、目標に向かうための実践はどうすれば良いのかが、記されています。
目標とするところは、厭離・離貧・滅尽・寂静・証智・等覚・涅槃であり、
目標に向かうための実践は、
と、勉励すること。
この4つの命題は古来仏教における基本中の基本の教えとして伝わっているもので、
特に「四諦」、「四聖諦」と呼ばれています。
- ■でも、どこかで聞いたことありませんか?
- そう、
「あ~苦しい…、どうしてこんなに苦しいんだろう…、どうしたらこの苦しみを離れられるんだろう…」
自分の心が呟いたこと、ありますよね。
- ■自分の中の具体的な苦しみは、実に様々です。時間がたてば忘れてしまうこともあるでしょう。
- 正面から取り組むことを避けてしまったこともないではありません。
でも、たとえ一つでも真摯に向き合って、その苦しみを克服する道を考え、そのように生きて
みることが大切なのではないでしょうか。
そこから逃げない。逃げられない苦しみがあるから。
他を頼らない。頼ったものを失うときに新たな苦しみがうまれるから。
もちろん、お釈迦さまのことですから、ご自身の答を記したお経はあります。後日そのお経も紹介させていただきたいと思いますが、解答を知ることが大切なのではなく、その過程、その答えに自らがたどり着くことが大切なのではないでしょうか。それが「勉励せよ」、という言葉につながっていると思います。
その答え「私知っているかも」、とおっしゃる方もあると思います。その答えが正しければ、
あらゆる苦しみに通じるものです。その考えを、あらゆる苦しみにあてはめてみてください。
仏教は幸せに生きるための道と思っています。その先頭ではお釈迦さまが、「汝らもまた来たれ」と
呼びかけておられます。まず一歩、歩き出してみませんか?