ニルヴァーナ(涅槃)

2016.12.27 ニルヴァーナ(涅槃)

涅槃
 
増谷文雄 阿含経典第三巻、無為相応 涅槃
南伝 相応部経典 四三、三四、涅槃
 
 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊はサーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、世尊は、比丘たちに告げて、つぎのように仰せられた。
 
 「比丘たちよ、わたしは汝らのために、涅槃と涅槃にいたる道を説こうと思う。よく聞くがよい。
比丘たちよ、では、涅槃とは何であろうか。比丘たちよ、貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである。
 
 比丘たちよ、また、涅槃にいたる道とは何であろうか。比丘たちよ、ここに比丘があって、
遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して、正見修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して、正思修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正語を修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正業を修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正命を修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正精進を修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正念を修め育てる。
また、遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して正定を修め育てる。
 
 比丘たちよ、このようにして、わたしは、汝らのために、涅槃を説き、涅槃にいたる道を説いた。
 比丘たちよ、およそ、弟子のさいわいを願い、慈しみある師が、慈しみをもって、弟子たちのために為すべきことは、わたしはすべて、これを汝らのために為した。
 比丘たちよ、ここに樹下がある。ここに空屋がある。思索するがよい。放逸であってはならぬ。後日に悔いることなかれ。これが、汝らに与えるわたしの教誡である」
 
 
 パーリ語で「ニッバーナ」、サンスクリット語で「ニルヴァーナ」と呼ばれる言葉は当時のインドでよく使われていた単語ではなく、お釈迦さま独自の言葉だったようです。
中国では意訳して「滅度」「寂滅」「円寂」単に「滅」をあててみたようですが、元の意を表現するにはぴったりしなかったようで、音写して「涅槃」としたものがもっともひろく用いられてきました。原意としては「火の消えたるさま」、「燃焼の壊滅(えめつ)」で、古くから、涅槃にいたる瞬間はろうそくの炎が消える時のようにフッという音がして、体が浮いたかと思われるほど心が軽くなる、と言われています。
 
このお経では、
涅槃とは
1、 貪欲の壊滅 欲望そのものではなく、貪るような激しさ
2、 瞋恚の壊滅
3、 愚痴の壊滅
 
涅槃にいたる道とは
遠離(おんり)により、離貪(りどん)により、貪りを滅しつくして、心平等に傾向して次の8種を修め育てる。
1、 正見
2、 正思
3、 正語
4、 正業
5、 正命
6、 正精進
7、 正念
8、 正定
これはまさしく八正道ということになりますが、八正道については道相応に詳細に語られるお経がありますので、別にご紹介したいと思っています。
 
 無為相応は全部で1980経集録されており、基本形はこのお経と同内容が少しずつ言葉を変えて残されているそうです。非常に具体的でシンプルな内容ですので、涅槃を語るにはここから入るのが良いように思いますが、内容が整理されていてとても論理的ですので、ごく初期のものではなく、少し時代が下がっているように思われます。
 
 ただ、「弟子のさいわいを願い、慈しみある師が、慈しみをもって、弟子たちのために為すべきことは、わたしはすべて、これを汝らのために為した。」と語られているように、ここにいたって得ることができないのは、教えてもらっていないことがあるからではなく、教わったことを素直に実践できていないから、と気付く必要があるのでしょう。
 
 それほどに、貪欲の壊滅(燃えるような欲望を持たない)、瞋恚の壊滅(怒らない)、愚痴の壊滅(愚痴らない)、はとても大切で、日々の生活の中で自ら実践しなければならないと、お釈迦さまが教えてくださっています。
 
 
涅槃については次のお経もお伝えしたいと思います。
 
南伝相応部経典、六、一、勧請
漢訳、増一阿含経、一九、一
 
 「わたしが証りえたこの法は、はなはだ深くして、見がたく、悟りがたい。寂静微妙にして思推の領域をこえ、すぐれたる智者のみのよく覚知しうるところである。しかるに、この世間の人々は、ただ欲望をたのしみ、欲望をよろこび、欲望に躍るばかりである。欲望をたのしみ、欲望をよろこび、欲望に躍る人々には、この理はとうてい見がたい。
 
 この理とは、すべては相依性にして、縁(条件)ありて起こるということであり、また、それに反して、すべての計らいをやめ、すべての所依を捨てされば、渇愛つき、貪りを離れ、滅しつくして、涅槃にいたるということである。もしわたしがこの法を説いても、人々がわたしのいうことを理解しなかったならば、わたしはただ疲労し困憊するばかりであろう」
 
 ここにも涅槃と涅槃にいたる道が語られています。お釈迦さまが正覚を得てほどないころの独り言のようですが、すとんと腑に落ちるように思われます。
 できるだけ多くの人の眼に触れ、心に留まり、想いをめぐらし、実践していただきたいと願います。