ソーナ(輸屢那)

2016.11.29 ソーナ(輸屢那)

中道について
 
ソーナ
輪廔那 増谷文雄「根本仏教」辺を離れて中に処する
南伝、増支部経典、六、五五、輪廔那。
漢訳、雑阿含経、九、三〇、二十億耳
 
 そのころ、ラージャガハの郊外のシータヴァナ(寒林)とよばれる淋しい森のなかでは、ソーナ(輪廔那)とよばれるひとりの若い比丘が修行をつづけていた。その修行ぶりは、たいへん厳しいものであったが、どうしたことか、彼はなかなか悟りの境地にいたることができなかった。
「わたしは、世尊の弟子衆のなかで、よく精進して住するものの一人である。それなのに、わたしはまだ、執着を離れて、解脱することをえない。わたしの家には財宝がある。わたしは、その財宝を受用して、幸福な生活をいとなむことができる。わたしは、むしろ、この学道をすてて、世俗の生活にかえり、財宝を受用して、幸福な生活をいとなんだほうがよいのではあるまいか」
 世尊は、彼の心のまよいを知って、ただ一人して彼を訪れ、その心境をただした。彼は、あるがままに、その思うところを師のまえに表白した。師は、ふと思い出したように、彼に問うていった。
「ソーナよ、そなたは家にありしころ、琴を弾くことが巧みで  あったというが、そうであるか」
「大徳よ、いささか琴をひくことを心得ておりました」
「では、ソーナよそなたはどう思うか。もし、汝の琴の絃があまりにもつよく張られたならば、それはよい音を出すであろうか」
「大徳よ、そうではございません」
「では、ソーナよ、もし汝の琴の絃が、あまりにゆるく張られたならば、それはよい音をだすであろうか」
「大徳よ、そうではございません」
「では、ソーナよ、もし汝の琴の絃が、あまりにつよくもなく、またあまりにゆるくもなく、ほどよく調えられたならば、それはよい音をだすことができるであろうか」
「大徳よ、そのとおりでございます」
「ソーナよ、まさにそのように、精進はなはだ強きに過ぐれば、心たかぶりて静かなること能わず、また、精進ゆるやかに過ぐれば、懈怠となるのである。だから、ソーナよ、そなたは平らかな精進に住し、六根の平静を守り、そこに目標を置くがよろしい」
「大徳よ、かしこまりました」
 
『テーラ・ガーター』(長老偈経)ソーナに帰せられる二つの偈
「われ極度の努力をなせしとき
 この世の最高の師にまします
 仏は、琴をたとえとして
 わがために法を説きたまえり」(638)
「それよりわれは教えを楽しみ
 最高の利を実現せんがため
 ただ三昧の境地にあそんで
 ついに仏の教えを成就せり」(639)
 
 それは古来「弾琴のたとえ」として語り継がれている教えで、厳しい修行の話でありながら、人間味あふれる温かい物語です。画一の修行ではなく一人一人の資質に合わせて、それぞれが自身の良い状況を日々整える中で行われないといけないのだと思います。
 その、ほどの良さを自身が判断するのも難しいですが、私は自身が笑顔で過ごせているか、人から笑顔を向けてもらえているか、で判断するようにしています。